語りべの追憶あの日あの時 中川村有線での取材回顧…
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始めに)… 中川村有線放送のこと 声のメディア
 昭和32年、「有線放送電話に関する法律」が施工され、中川村有線放送は、昭和の35年6月、「南向」と「
片桐」両農協での有線放送協会を発足させた。そして昭和45年に統合して生まれた。
 農村にまだ公社電話が少なかった時代、地域密着型の有線放送施設は、通話と共に音声告知(お知らせ)と
自主番組の放送機能をもち、村民の直接的な放送への参加・登場を可能としたもので、村民の様々な生の語り
べ収録は「先人に学ぶ」老いの声として「声の宝」村の財産でもある。

 昭和49年には全国の有線放送自主番組コンクールで「心のふるさと四徳」が企画番組部門で最優秀賞、「農林
」「郵政」各大臣賞を受賞、評価を受けることができた。 それら声の記録は、中川村有線放送の個性といっても
も良いのかもしれない。
 私がそれらの番組企画や取材の一員として携わったのは、昭和の42年から平成15年まで。
あの日あの時」は、当時を偲び、数多い取材の中から、折に触れ「私の追憶」として紹介していきます。




H29 4/30記 大法寺住職 藤塚義誠(ぎじょう)さんのこと「未来信じて向き合う」
駒ヶ根市の大法寺住職・藤塚義誠さんが、29年春の叙勲で「瑞宝双光章」を受章された。
公共的業務に長年従事された人が対象で、住職の藤塚さんは34年間にわたり保護司として、犯罪を犯した人や非行に走った人の更正を支えてこられた。(更正保護功労)
お寺を離れての御法話が多くから求められ、その語り口調はゆったりと静かな低音の語りが聴衆を惹きつけた。
自分が有線放送勤務のころ、よく、番組に出演をお願いした。いつも気持ち良く受けて下さり、その温厚なお人柄と語り部が、昨日のことのように思えてならない。74歳とお聞きした。時の流れを思う。


H28 8/11 アンフオルメル中川村美術館の建造
山深い美里地区に、1989年、アンフオルメル中川村美術館が生まれた。
建造者は横浜生まれで東京育ちの鈴木タカシさん(二科会)。長身を包むハイカラな衣装、明治生まれで
建設時90歳、「僕は大正浪漫と大正無頼が一緒になった男」と笑顔で話された。
目が見えない不自由な状況だったが足も口も達者で、奥さんが手を差し伸べての歩行、堂々の紳士で、現・望岳荘」以前の古体育館を会場に、アンフオルメル美術館建設への夢や、鈴木さんの考える芸術論文化について講演をされたり、多くの知人・友人を村に呼び講演や村民との友好を深めた。
 
慶応大学法学部卒、パリ大学院で経済学を学び時事新報臨時特派員を務め、パリ13年、美学では東郷青児などのグループにいた。
私費2億円、鈴木さんは、国際化が進む中で、ドイツとかフランスの小さな村と美術館の姉妹村になったり美学・哲学・社会学のジャンルで世界とアカデミックな交流の場にしたい」と夢をもたれていたが、完成時に一回り年下の奥さんの急死で、遺産相続などから中川村の美術館としての開館となった。98歳でこの世を去る。


アンフオルメル美術館を設計、毛綱キコウさんとの縁
アンフオル美術館の設計は、北海道釧路市生まれで神戸大学卒、日本建築学会賞を受賞した建築家の毛綱キコウさん。2001年10月2日に59歳で亡くなった。
毛綱キコウさんとの縁は、吉川建設に勤めていた同年同級の三共、諏訪肇君から紹介され、私の家にも
訪ねて下さった。その折、私が我が家の増築でその判断に迷っていた時なので、毛綱さんにお話したら、早速に
家を見せて下さいと家周りを診て下さったことがある。
その折の毛綱さんは、家増築でなく新築にしなさいと云われたので、今300万円位しか無いとお話したら、改築してもビールスはビールス、改造されていない箇所を直すことになる、今の年齢を思えば今が新築のチャンス
だと聞かされ新築を決めた経過が有ります。
その後、画家の横前秀幸さんに毛綱さんを紹介し、アンフオル設計となりました。
近代建築批判の特異な造形で、国際的に評価を集め、温厚でユーモア豊かな毛綱さんのお人柄が強く印象に残っている。
毛綱さんの訃報を奥さんからいただいて、2002年、東京玉川大学での遺作展に出て、亡き毛綱さんを偲んだ。早き別れが残念。
 
                           キコウさんから頂いたサイン
H28 4/26記 田中角栄飯田市に来・・語録
私の手元に、日本人の魂をつかんだ男として今注目される政治家、故「田中角栄」の語録収録テープがある
「田中角栄」と言えば、昭和56年頃、飯田市で時局講演をしたことがある。
地元飯田市から自民党の国会議員として貢献された中島巌さんが亡くなり告別式が行われた。その折、鼎中学校で約1時間20分の時局講演が行われたもので、その録音テープを当時の同職友達から譲り受け「時の人
」として村内有線番組で放送した。
当時は、田中金脈の批判などから、世相の田中関心は薄れていたように思う。
勿論ダビングはしないとの約束であり、多くの世間は知らないことである。
再度今、テープを聞いてみれば、昨日聴いたかの如く新鮮で改めての感動を覚える。
大学生のアンケート調査によれば、現代の政治家の中で「人気ナンバー一」だとか。


メディアには「始まり」や「終わり」がある。
それは、私たち人間自身が生きる生涯に似ているー。
私が永く勤めさせていただいた「中川村有線放送電話」も、その職務を終えて15年程が経過した。
その数多い収録に関わった者として、番組テープが「中川村の人間社会の歴史」と考えれば、みすみす消す訳にはいかない。そこで施設終焉の折、多くのテープが処分されると聞いて、自分の関わった番組テープ基を我が家に頂くことにした。
(CDに移し替え不要処分のため)
声宝人財産
、「人物考察」として、田中角栄の本を飯田市の書店に数多く並べられる中、2冊を買った。


H27 4/15 中川村の暮らしに解け込み積極的に取材した「アーサーバーナップさん (昭和53年)
 アメリカの大統領選挙(2016)に民主党のクリントン前国務長官が出馬を表明した。
クリントンの学歴はエール大学。
 
エール大学といえば、中川村に昭和53年、1年間を滞在されたアーサーバーナップさんを思い出す。

 アーサーさんは当時エール大学の学生で「言語学」を選考、中川村の農村文化や村の発展状況など、村内
での行事や、暮らしに積極的に解けこみ、あらゆる行事に参加された。日本語ペラペラで村民の人気を高めた人物。
 信州大学の真瀬教授の紹介で、中組地区の湯沢俊先生を訪ね村滞在、有線では、村内行事に参加して
の感想やアメリカについての解説などを放送に活かし、多義にわたって出演参加を頂いた。
 丁度、同年、我が家の父の葬儀にも来て下さり、式の動きに興味を示されたことを思い出す。

 アーサーサンは、その3年後、アイオワ大学・日本学科の先生に着任、帰国後の「村を去っての中川感想」など、
テープにまとめ寄せて送って下さった。 今どうされておられるか、中川村への再来をお待ちしている。
 


父が中川村飯沼の出身日本の政治家高原須美子・南向小学校で過す(たかはら すみこ)さん
あれは、いつ頃のことだったか、1989年8月海部内閣で経済企画庁長官を務めた経済評論家、高原須美子さ

んが、大臣就任以前、中川村に来日して、東公民館で講演をした。

幼年期飯沼の小林弘一さん宅から当時の南向小学校に1年通い(弘一さんと従兄弟)、テレビでも名が知られていた高原さんは、村に市川房江さんが来日同様、多くの村民が集まり演題は「高齢化社会を生き抜く知恵」であった。

録音テープ表示には「女は3度老いを生きる」となっている。


東京生まれで一橋大学卒業、56年に毎日新聞入社、エコノミスト記者などを経て結婚退社、その後評論家となる。女性で民間人閣僚(1933
〜2001)は当時初めて。

その後、日本体育協会会長やセントラル・リーグ会長にも就任されたが、いずれのポストも女性では初めてであった。

一橋大学同期には石原慎太郎、鳥海厳丸紅元社長、高橋宏首都大学理事長がおり、4家族毎年旅行に出かける仲だったという。 中川村の村長が宮崎正直さんの頃、飯田市山本に茶室・家を構えたが、2001年8月19日、悪性リンパ腫で死去された。68歳        Page Top



桂米丸、春日三球照代 来村のとき……牧ヶ原橋完成の時この改行は必要→
昭和53年の年だったか、村に落語家「桂米丸」、夫婦漫才「三球照代」が来たことがある。
牧ヶ原橋竣工祝の演芸会で、中学校の体育館が会場だった。
当時、地下鉄漫才で名をならした春日三球照代は
、「家族の中で余韻の残る話をしたい」と話
されていたが、あの早口の語り調、会場を笑いで包んだ情景は今も忘れることが出来ない。

樋渡涓二(NHK放送基礎研究所工学博士)中川村来村
絵画を通して
、中央で活躍される著名人に接することが出来ることは人の縁として感謝の思いが強い。
1922年に仙台生まれる。東北大を経てNHK入局、 NHK放送基礎研究所所長で工学博士、
NHK退職後、筑波大学、明星大学各教授として、又、日本画府(日府展)理事長としても活躍された。
中川村に来られたのは筑波大学教授時代、当時、中川村にアトリエをもつ画家水谷淳先生との縁で、アトリエには度々友人や学生などと訪れ伊那谷風景など筆をとられた。先生は気分転換の狙いがあったように想う。スケッチでは割り箸を使いその場を何回も拝見している。我が家にも訪れ先生の作品も多くがある。
村の文化センターにも大作が数点展示されており当時を懐かしく思い出される。
主な収蔵先:東北大学、NHK技研、KDDI研究所など、出版:「ヨーロッパを描く作品集」「日府展出品作品集」自己
波瀾に満ちた時代と対比するか のような明るい色彩、画風を70年近く描き続けてこられた。春のうららかな風に運ばれてきたよ うな明るい画風の風景、静物、群像の作品は作家の人柄がにじみ出るような作品となっている。




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